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鶴喜そば(大津市坂本)、It was delicious.

Mori soba (盛り蕎麦),Basic chilled soba noodles served on a flat basket or a plate.

at Kanetanaka,

  

Kitaōji Rosanjin (北大路 魯山人, March 23, 1883 – December 21, 1959) was the pseudonym for a noted artist and epicure during the early to mid-Shōwa period of Japan. His real name was Kitaōji Fusajirō (北大路 房次郎), but he is best known by his artistic name, Rosanjin. A man of many talents, Rosanjin was also a calligrapher, ceramicist, engraver, painter, lacquer artist and restaurateur.

 

Rosanjin was born in what is now part of Kita-ku, Kyoto, as the younger son of the head priest of Kamigamo Shrine. At the age of six, he was apprenticed to (and adopted by) Fukuda Takeshi, a Kyoto woodblock engraver, after his father committed suicide on finding out that the child was not his own son. At the age of ten, while still in elementary school, he was also working at a local Chinese herbalist. In 1903, Rosanjin moved to Tokyo with the intent of studying Japanese calligraphy, winning first prize in a contest by the Japan Art Academy the following year. In 1905, he was accepted as an apprentice by noted calligrapher Okamoto Ippei, who sent him to northern China from 1908-1910 to study calligraphy and the art of Seal cutting.

   

In 1915, Rosanjin moved to Kyoto and Kanazawa, where he first began experimenting with decorated ceramics and developing his aesthetic theories on the relationship between food and the design of the ceramics on which it was served. In 1919, he returned to Tokyo, where he opened an art gallery and in 1920 he founded the Bishoku Club (Gourmet's Club) on the second floor of his gallery, where he began serving food on his collection of traditional ceramics. In 1925, the restaurant moved to the Nagatachō neighborhood of Tokyo, where it was renamed the Hoshigaoka-saryo.

   

However, the Great Tokyo earthquake of 1923 destroyed most of his ceramics collection, so Rosanjin began making pottery to replace it. In 1926, with the assistance of Toyozō Arakawa, he established a kiln in the Yamasaki neighborhood of Kamakura. Rosanjin began by imitating the classic forms of Japanese Mino, Shigaraki, Bizen and Kutani ceramics, and also for classic blue-and-white wares and colored porcelains of Ming period China. However, he often surpassed the classical forms, and became famous for his simple, but daring, original designs, at time incorporating elements of Japanese calligraphy, of which he was also an acknowledged master.

   

Rosanjin was also noted as a scholar of antique pottery publicizing his work in a privately published periodical, Hoshigaoka, during the 1930s.

   

In the post-war period, despite some financial difficulties, in 1946 Rosanjin opened a restaurant in the Ginza district of Tokyo called Kadōkadō-byō. It was patronized by the upper levels of the American occupation forces, and helped establish Ryosanjin’s reputation overseas. In 1951, noted sculptor Isamu Noguchi and his actress wife Yoshiko Ōtaka accepted an invitation to live on Rosanjin’s property in Kamakura, where they stayed for several years. Rosanjin launched a quarterly magazine, Doppo, in 1954. Also in 1954, Rosanjin accepted an invitation by the Rockefeller Foundation to hold a solo exhibition of his works in New York City at the Museum of Modern Art. He continued on to Europe, where he met with Pablo Picasso and Marc Chagall. In 1955, one of his Oribe ware works was designated an Important Cultural Property of Japan by the Japanese government. Rosanjin was designated a Living National Treasure by the Japanese government in 1959, but was one of the very few people to decline the honor.

   

Rosanjin died in Yokohama in 1959 of cirrhosis of the liver brought about by a liver fluke infection. His grave is at the temple of Saihō-ji in Kyoto.

   

北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん、ろざんじん・ろさんにん とも、1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。

 

晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。

 

1883年(明治16年)、両親は京都府愛宕郡上賀茂村(現:京都市北区)上賀茂に、上賀茂神社の社家・北大路清操(きよあや/せいそう)、登女(とめ、社家・西池家の出身)の次男として生まれる。士族の家柄だったものの生活は貧しく、その上版籍奉還2年後の明治4年に今まで保証されてきた俸禄制と世襲制が廃止されため混乱期にあった。父・清操は東京に職を求めたり京都に戻ったりという生活をしていたが、房次郎(魯山人)が生まれる4ヶ月前に自殺する。母・登女は滋賀県滋賀郡坂本村(現:大津市坂本)の農家に房次郎を預け失踪する。しかし家で房次郎は放置状態にあり、預けた1週間後、この農家を紹介した巡査の妻が再び連れて帰る[1]。出生から5ヶ月後の明治16年9月6日、巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となる。しかしこの2ヶ月前の7月2日に服部巡査が行方不明になる。同年秋に巡査妻が病死し、この2人の養子の夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになる[2]。

   

3歳の春、上賀茂神社の東側に拡がる神宮寺山を養姉に連れられて散歩をしている時、房次郎に永遠の記憶を残す「真っ赤な躑躅(つつじ)の咲き競う光景」を見る。房次郎はこの激しい色彩の渦を見て「美の究極」を感じ、自分は美とともに生きようと決心したという。

   

そのころ義兄に精神異常が出てその後死亡。1887年頃房次郎4、5歳の時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せる。この家で房次郎は義姉の母から激しい虐待を受ける。2、3ヶ月後、これを見かねた近所の人が上京区(現:中京区)竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人のところへ養子話を持ちかける。こうして房次郎は1889年(明治22年)6月22日、福田房次郎となり以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなる。福田家では6歳の頃から炊事を買って出る。炊事の中で房次郎は味覚と料理の基本を学んでいく。

   

10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小、新町小)を卒業。春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ住み込みで出される。ある日奉公先の使い走りの最中、御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われる。その絵を描いたのは亀政の主人の長男でのちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳であった。彼に会ったことで絵に対する好奇心と情熱は一気に高められた。

   

1896年1月奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込むが家計的な問題もあり断念。養父の木版の手伝い始め扁額や篆刻など後に勇躍することになる分野の基礎的な感覚を身に着けていく。他方、一字書の書道コンクールで初の応募ながら何万の出展作品の中からな天の位1枚・地の位1枚・佳作1枚受賞する。以後彼は応募を続け次々と受賞していく。14、5歳の彼は稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始める。このころ西洋看板描きとしても活躍する。

   

20歳の時、縫箔屋の主人が房次郎の従兄と名乗って現れる。彼により母の所在を知る。実の母の居所が分かり、東京に会いに行ったものの受け入れられず、そのまま東京に残り書家になることを志す。1904年(明治37年)、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞し頭角を現す。21歳での受賞は前代未聞の快挙であった。この展覧会では福田海砂(かいさ)と号した(この号は翌年までの2年間のみ使用)。その後住み込みで版下書きの仕事を始める。この頃実母登女との関係も良くなっていく。1905年(明治38年)、町書家・岡本可亭(漫画家・岡本一平の父、洋画家・岡本太郎の祖父)の内弟子となりその後3年間住み込む。そこでは福田可逸(かいつ)の号を授かり次第に可亭よりも仕事の発注が増えていく。やがて帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向するようになる。1907年、福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立する。翌年2月17日、結婚。その年の夏に長男が誕生。仕事は繁盛し稼いだ収入を書道具・骨董品・外食に注ぎ込むようになる。また合間には書肆に出掛けて畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭した。

   

1910年12月、実母と共に朝鮮に旅立つ。母を京城(現・ソウル)の兄のところへ送り届けた朝鮮内を旅し3ヶ月後、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め3年ほど生活する。1911年3月日本に残した妻に第二子が誕生。京城滞在1年弱で上海に向かい書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩に会う。1912年夏に帰国。書道教室を開く。半年後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここで魯山人は福田大観(たいかん)の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになった。1914年2度目の離婚。

   

1916年、3年前に長男である房次郎の兄が他界したことにより、母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗る。そして北大路魯山人の号を使いはじめる(魯卿と数年併用している)。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。また内貴清兵衛と彼の別荘である松ヶ崎山荘で交流も深めていき料理に目覚めていった。1917年(大正6年)、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、1921年(大正10年)、会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。

   

1927年(昭和2年)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は1945年(昭和20年)の空襲により焼失した。

   

戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。また1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ・山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させた。1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。1955年(昭和30年)には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。

   

1959年(昭和34年)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変[4]のため横浜医科大学病院で死去。

   

1998年(平成10年)、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。

 

人物

   

魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた。生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とした。この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼした。

   

6度の結婚(1908年、17年、27年、38年、40年、48年)はすべて破綻、2人の男児は夭折した。娘を溺愛したものの長じて魯山人の骨董を持ち出したことから勘当し、最晩年にいたっても魯山人の病床に呼ぶことすら許さなかった。その一方、家庭の温かみに飢えていた魯山人は、ラジオやテレビのホームドラマの何気ない会話、微笑ましい場面によく肩を震わせ涙を流して嗚咽したという。

   

美食家として名を馳せた魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく、渡仏の際に訪れた鴨料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、自ら持参したわさび醤油で食べたこともあった。また、使ったわさびは粉ワサビだった。

   

つねに傲岸(ごうがん)・不遜・狷介(けんかい)・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、柳宗悦・梅原龍三郎・横山大観・小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家・ピカソまでをも容赦なく罵倒した。この傲慢な態度と物言いが祟り、1936年(昭和11年)に星岡茶寮から追放されてしまう。逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王・吉田茂などから愛されもした。

 

気難しい人物で、晩年魯山人の家で働いていた手伝い曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。それができなくて叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」とのこと。

 

阪急電鉄の創業者・小林一三は、阪急百貨店で魯山人の個展を開いていた。その折、小林は、魯山人に対して、「少しでも安く売るようにしてほしい」と伝える内容の文章を、同百貨店の美術誌に掲載した。これに対し魯山人は、1943年(昭和18年)10月19日付で小林に宛てた手紙で、「これが高いと言われるのは不愉快だ」と反論し、さらに、同月17日には、その美術誌編集者を小林が気に入っていることが不思議だと、小林自身に対しても批判した上、展覧会中止を申し出た。

at Kanetanaka,

 

Kitaōji Rosanjin (北大路 魯山人, March 23, 1883 – December 21, 1959) was the pseudonym for a noted artist and epicure during the early to mid-Shōwa period of Japan. His real name was Kitaōji Fusajirō (北大路 房次郎), but he is best known by his artistic name, Rosanjin. A man of many talents, Rosanjin was also a calligrapher, ceramicist, engraver, painter, lacquer artist and restaurateur.

Rosanjin was born in what is now part of Kita-ku, Kyoto, as the younger son of the head priest of Kamigamo Shrine. At the age of six, he was apprenticed to (and adopted by) Fukuda Takeshi, a Kyoto woodblock engraver, after his father committed suicide on finding out that the child was not his own son. At the age of ten, while still in elementary school, he was also working at a local Chinese herbalist. In 1903, Rosanjin moved to Tokyo with the intent of studying Japanese calligraphy, winning first prize in a contest by the Japan Art Academy the following year. In 1905, he was accepted as an apprentice by noted calligrapher Okamoto Ippei, who sent him to northern China from 1908-1910 to study calligraphy and the art of Seal cutting.

 

In 1915, Rosanjin moved to Kyoto and Kanazawa, where he first began experimenting with decorated ceramics and developing his aesthetic theories on the relationship between food and the design of the ceramics on which it was served. In 1919, he returned to Tokyo, where he opened an art gallery and in 1920 he founded the Bishoku Club (Gourmet's Club) on the second floor of his gallery, where he began serving food on his collection of traditional ceramics. In 1925, the restaurant moved to the Nagatachō neighborhood of Tokyo, where it was renamed the Hoshigaoka-saryo.

 

However, the Great Tokyo earthquake of 1923 destroyed most of his ceramics collection, so Rosanjin began making pottery to replace it. In 1926, with the assistance of Toyozō Arakawa, he established a kiln in the Yamasaki neighborhood of Kamakura. Rosanjin began by imitating the classic forms of Japanese Mino, Shigaraki, Bizen and Kutani ceramics, and also for classic blue-and-white wares and colored porcelains of Ming period China. However, he often surpassed the classical forms, and became famous for his simple, but daring, original designs, at time incorporating elements of Japanese calligraphy, of which he was also an acknowledged master.

 

Rosanjin was also noted as a scholar of antique pottery publicizing his work in a privately published periodical, Hoshigaoka, during the 1930s.

 

In the post-war period, despite some financial difficulties, in 1946 Rosanjin opened a restaurant in the Ginza district of Tokyo called Kadōkadō-byō. It was patronized by the upper levels of the American occupation forces, and helped establish Ryosanjin’s reputation overseas. In 1951, noted sculptor Isamu Noguchi and his actress wife Yoshiko Ōtaka accepted an invitation to live on Rosanjin’s property in Kamakura, where they stayed for several years. Rosanjin launched a quarterly magazine, Doppo, in 1954. Also in 1954, Rosanjin accepted an invitation by the Rockefeller Foundation to hold a solo exhibition of his works in New York City at the Museum of Modern Art. He continued on to Europe, where he met with Pablo Picasso and Marc Chagall. In 1955, one of his Oribe ware works was designated an Important Cultural Property of Japan by the Japanese government. Rosanjin was designated a Living National Treasure by the Japanese government in 1959, but was one of the very few people to decline the honor.

 

Rosanjin died in Yokohama in 1959 of cirrhosis of the liver brought about by a liver fluke infection. His grave is at the temple of Saihō-ji in Kyoto.

 

北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん、ろざんじん・ろさんにん とも、1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。

晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。

1883年(明治16年)、両親は京都府愛宕郡上賀茂村(現:京都市北区)上賀茂に、上賀茂神社の社家・北大路清操(きよあや/せいそう)、登女(とめ、社家・西池家の出身)の次男として生まれる。士族の家柄だったものの生活は貧しく、その上版籍奉還2年後の明治4年に今まで保証されてきた俸禄制と世襲制が廃止されため混乱期にあった。父・清操は東京に職を求めたり京都に戻ったりという生活をしていたが、房次郎(魯山人)が生まれる4ヶ月前に自殺する。母・登女は滋賀県滋賀郡坂本村(現:大津市坂本)の農家に房次郎を預け失踪する。しかし家で房次郎は放置状態にあり、預けた1週間後、この農家を紹介した巡査の妻が再び連れて帰る[1]。出生から5ヶ月後の明治16年9月6日、巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となる。しかしこの2ヶ月前の7月2日に服部巡査が行方不明になる。同年秋に巡査妻が病死し、この2人の養子の夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになる[2]。

 

3歳の春、上賀茂神社の東側に拡がる神宮寺山を養姉に連れられて散歩をしている時、房次郎に永遠の記憶を残す「真っ赤な躑躅(つつじ)の咲き競う光景」を見る。房次郎はこの激しい色彩の渦を見て「美の究極」を感じ、自分は美とともに生きようと決心したという。

 

そのころ義兄に精神異常が出てその後死亡。1887年頃房次郎4、5歳の時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せる。この家で房次郎は義姉の母から激しい虐待を受ける。2、3ヶ月後、これを見かねた近所の人が上京区(現:中京区)竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人のところへ養子話を持ちかける。こうして房次郎は1889年(明治22年)6月22日、福田房次郎となり以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなる。福田家では6歳の頃から炊事を買って出る。炊事の中で房次郎は味覚と料理の基本を学んでいく。

 

10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小、新町小)を卒業。春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ住み込みで出される。ある日奉公先の使い走りの最中、御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われる。その絵を描いたのは亀政の主人の長男でのちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳であった。彼に会ったことで絵に対する好奇心と情熱は一気に高められた。

 

1896年1月奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込むが家計的な問題もあり断念。養父の木版の手伝い始め扁額や篆刻など後に勇躍することになる分野の基礎的な感覚を身に着けていく。他方、一字書の書道コンクールで初の応募ながら何万の出展作品の中からな天の位1枚・地の位1枚・佳作1枚受賞する。以後彼は応募を続け次々と受賞していく。14、5歳の彼は稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始める。このころ西洋看板描きとしても活躍する。

 

20歳の時、縫箔屋の主人が房次郎の従兄と名乗って現れる。彼により母の所在を知る。実の母の居所が分かり、東京に会いに行ったものの受け入れられず、そのまま東京に残り書家になることを志す。1904年(明治37年)、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞し頭角を現す。21歳での受賞は前代未聞の快挙であった。この展覧会では福田海砂(かいさ)と号した(この号は翌年までの2年間のみ使用)。その後住み込みで版下書きの仕事を始める。この頃実母登女との関係も良くなっていく。1905年(明治38年)、町書家・岡本可亭(漫画家・岡本一平の父、洋画家・岡本太郎の祖父)の内弟子となりその後3年間住み込む。そこでは福田可逸(かいつ)の号を授かり次第に可亭よりも仕事の発注が増えていく。やがて帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向するようになる。1907年、福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立する。翌年2月17日、結婚。その年の夏に長男が誕生。仕事は繁盛し稼いだ収入を書道具・骨董品・外食に注ぎ込むようになる。また合間には書肆に出掛けて畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭した。

 

1910年12月、実母と共に朝鮮に旅立つ。母を京城(現・ソウル)の兄のところへ送り届けた朝鮮内を旅し3ヶ月後、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め3年ほど生活する。1911年3月日本に残した妻に第二子が誕生。京城滞在1年弱で上海に向かい書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩に会う。1912年夏に帰国。書道教室を開く。半年後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここで魯山人は福田大観(たいかん)の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになった。1914年2度目の離婚。

 

1916年、3年前に長男である房次郎の兄が他界したことにより、母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗る。そして北大路魯山人の号を使いはじめる(魯卿と数年併用している)。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。また内貴清兵衛と彼の別荘である松ヶ崎山荘で交流も深めていき料理に目覚めていった。1917年(大正6年)、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、1921年(大正10年)、会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。

 

1927年(昭和2年)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は1945年(昭和20年)の空襲により焼失した。

 

戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。また1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ・山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させた。1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。1955年(昭和30年)には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。

 

1959年(昭和34年)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変[4]のため横浜医科大学病院で死去。

 

1998年(平成10年)、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。

人物

 

魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた。生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とした。この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼした。

 

6度の結婚(1908年、17年、27年、38年、40年、48年)はすべて破綻、2人の男児は夭折した。娘を溺愛したものの長じて魯山人の骨董を持ち出したことから勘当し、最晩年にいたっても魯山人の病床に呼ぶことすら許さなかった。その一方、家庭の温かみに飢えていた魯山人は、ラジオやテレビのホームドラマの何気ない会話、微笑ましい場面によく肩を震わせ涙を流して嗚咽したという。

 

美食家として名を馳せた魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく、渡仏の際に訪れた鴨料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、自ら持参したわさび醤油で食べたこともあった。また、使ったわさびは粉ワサビだった。

 

つねに傲岸(ごうがん)・不遜・狷介(けんかい)・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、柳宗悦・梅原龍三郎・横山大観・小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家・ピカソまでをも容赦なく罵倒した。この傲慢な態度と物言いが祟り、1936年(昭和11年)に星岡茶寮から追放されてしまう。逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王・吉田茂などから愛されもした。

 

気難しい人物で、晩年魯山人の家で働いていた手伝い曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。それができなくて叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」とのこと。

 

阪急電鉄の創業者・小林一三は、阪急百貨店で魯山人の個展を開いていた。その折、小林は、魯山人に対して、「少しでも安く売るようにしてほしい」と伝える内容の文章を、同百貨店の美術誌に掲載した。これに対し魯山人は、1943年(昭和18年)10月19日付で小林に宛てた手紙で、「これが高いと言われるのは不愉快だ」と反論し、さらに、同月17日には、その美術誌編集者を小林が気に入っていることが不思議だと、小林自身に対しても批判した上、展覧会中止を申し出た。

塩の看板 大津市坂本

12月1日は年に一度の天台宗の托鉢の日。報道陣のカメラもいっぱい。法螺貝の音と共に、延暦寺のお坊さん達がたくさんいらっしゃいました。お座主様に直接寄付をお渡しして、我が家も祈祷して頂きました。 #托鉢 #一隅を照らす運動 #天台宗 #大津市坂本