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史尼育唔:經31年才解甲歸鄉的高砂義勇隊 | by changturtle
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史尼育唔:經31年才解甲歸鄉的高砂義勇隊

中村輝夫 スニオン.

 

zh.wikipedia.org/wiki/史尼育唔

 

台籍日本兵

 

为谁而战的台籍日本兵.

 

被淹沒的島嶼戰史:高砂義勇隊

 

殖民下台灣原住民

 

「日本散兵」-中村輝夫

 

www.tonyhuang39.com/tony0540/tony0540.html

 

史尼育唔(又譯史尼雍,1919年-1979年)為臺灣阿美族的原住民,第二次世界大戰時擔任高砂義勇隊的隊員,日本名為「中村輝夫」,漢名為「李光輝」。他於1943年被徵召至印尼從軍,因在摩羅泰島上的蠻荒叢林中獨自生存了30年而聞名於世。

史尼育唔出生於臺東廳新港郡都蘭庄(今臺東縣東河鄉),1943年加入高砂義勇隊,並徵召至印尼摩羅泰島服役。1944年9月15日,同盟國陣營登陸摩羅泰島,經過兩個月的攻防之後,日本守軍不敵,而史尼育唔在混戰之中與部隊失去聯絡,便一個人在叢林之中等待援軍的來到。當時他身上的「財產」,只有兩枝三八式步槍、幾十發子彈、一頂鋼盔、一把軍刀、一個鋁質餐鍋、一身軍裝、一面鏡子和少許日用品而已。

此時的日軍殘部,由於遍尋不著史尼育唔的蹤影,在11月13日回報史尼育唔已為皇軍「光榮戰死」。

 

1945年8月15日,日本投降,但在孤島叢林中的史尼育唔完全不曉得日本已經戰敗,依然躲在叢林之中,靠著他過去所知道的野外求生知識與技術,蓋了一間竹屋,以野果充飢,或偷取農戶種植的農作為食。後來,史尼育唔為避免被「敵人」發現,便開始自己耕種,偶而也獵補野生動物進食;他以鏡子在中午反射陽光取火,並挖掘土坑,放置乾燥木柴,以保存火苗。就這樣,他渡過了30年魯賓遜般的蠻荒生活。

1974年,摩羅泰島的居民向印尼政府報案,說島上存在著一名全身赤裸的野人。12月29日,印尼政府組織了11個人的搜索隊,經過了30個小時的搜尋,終於發現了正在劈柴的史尼育唔。此時的他才知道,第二次世界大戰早已結束。1975年1月8日,他搭乘了專機,回到了他睽違31年的故鄉─臺灣。

 

史尼育唔在回到台灣後的第四年(1979年),因肺癌去世,終年60歲。

 

史尼育唔的出現,不但震驚了世界,更勾起世人對於高砂義勇隊模糊的歷史,部分學者循著此線研究出許多台灣原住民在二次大戰中效命沙場的事蹟,發掘了更多「高砂義勇隊」的秘辛

 

一九七四年十二月,阿美族人史尼育唔(中文名李光輝)幽靈般地在印尼摩羅泰島上被發現。三十年來未接觸「文明」世界,史尼育唔被發現時,赤身裸體有如野人般正揮動著蕃刀劈柴,在他居住的叢林竹屋,還找到戰時所用的三八式步槍,還未上膛的十八發子彈、軍用水壺、鋁鍋、鋼盔等,在叢林裡獨自生活了三十一年,史尼育唔生還的奇蹟震驚了世界。

 

印尼軍方在接獲村民在森林裡發現「野人」報告,組織了11人的搜索隊,經過30小時的跋涉,終於發現了一名「日本散兵」-中村輝夫,他從1944年11月間逃進摩祿泰島叢林後,與世隔離,根本不知道二次世界大戰結束的消息,獨自生活了30年,1974年12月29日始被專機載送離開了距菲律賓南端約8百公里,屬印尼的這座孤島,返回文明社會。「生一二一九部隊」日本上等兵中村輝夫,實際上是台東平地山胞,中文名字為李光輝,山地名字叫史尼育晤;24歲那年日閥徵調他當兵,僅經過短暫訓練,就派往南洋戰場,他們的部隊駐紮摩鹿加群島北方的小島-摩祿泰島,盟軍反攻該島時,李光輝逃入叢林,與部隊失去聯絡,他憑藉著野外求生技術,過著30年自立營生的「魯賓遜荒島生活」,1975年1月8日才回到了台灣,但在4年之後卻以肺癌結束其傳奇的一生。

 

www.wufi.org.tw/dbsql/jshowmsga.php?id=404

 

japanese.rti.org.tw/Japanese/activities/2003/031016.htm

 

フィリピン・ミンダナオ島で元日本兵が発見されたというニュースが新聞、テレビで報じられている。

 

この発見は1972年の横井庄一さん、1974年の小野田寛郎さんの発見以来であると説明されている。不思議なことに、小野田さん発見から約10ヵ月後の1974年12月にモロタイ島で発見された元日本兵、中村輝夫さんのことは一切報じられていない。

 

同じ日本兵として、ジャングルで日本のために一人戦い続けた中村輝夫さんであったが、台湾出身であったから、発見されたときから日本政府は対応に冷たかった。

 

「すでに国籍が違う」という理由で、わずか数十万円の見舞い金を支払っただけで、日本でねぎらうこともせず、台湾に送り返したのである。横井さん、小野田さんに対しての手厚い補償とは雲泥の相違であった。

 

しかし、中村さんという日本兵が発見されたのはまぎれもない事実である。中村輝夫さん(本名、スニヨン)は台湾原住民出身で、25歳で、昭和十八年に高砂義勇隊として出兵し、終戦後30年近く経って発見されるまで

 

日本兵として、55歳まで戦ったのである。発見された当時、そして、その後に展開された「台湾人元日本兵士の補償請求運動」において、日本のマスコミはかなり熱心に好意的に、このことを取り上げていた。議員立法によって、1987年に「台湾出身の戦死者遺族、及び戦傷者に対して、一律200万円の弔慰金を支払う」という法律が成立した陰には、世論とマスコミの力も大きく働いたのである。法律まで成立したのである。まさか、台湾人元日本兵士が存在しなかったとは言えまい。

 

ではなぜ、今回、日本のマスコミは口裏を合わせたかのように、過去の発見は横井さん、小野田さんだけだったと報じているのだろう?誰が、中村輝夫さんのことを歴史から抹殺したのだろう?

 

台湾人ははじめ志願兵として、のちに徴兵により、21万人も出兵している。そして、終戦と同時に、日本から切り離され、一切の補償も恩給も、未払い給与ももらえずにいた。それでいて、戦犯としては、多くの台湾人が日本人として処罰を受けたのである。罰せられるときには、「もう国籍が違う」という理由は通らなかった。

 

こんな割の合わない辛い境遇にある台湾人元日本兵士の存在をマスコミが抹殺するとは……。私は残念でならない。マスコミとは、政府よりも世論よりも正義感をもって、公平にものごとを見なければならないはずである。

 

情報によると、まだ数十人の元日本兵が生存しているそうだが、その中に、もし台湾出身兵が存在していた場合はどうするつもりなのだろう?

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Taken on December 19, 2007