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Untitled | by Asa-moya
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At Asakusa, Tokyo. 09-Jul-2004

 

My mother's parents were born in Asakusa. It was told by my mother that her mother's father had been the chief of the Asakusa police station for a certain period of the Meiji era, and that her mother before getting married had been employed in Nippon Ginko (The Bank of Japan). On the other hand my mother's father wrote down his needy life in Asakusa of the Meiji era in his autobiography.

 

Though he became a leading merchant in Kanda after that, his trade and stores suffered heavy losses at Great Kanto Earthquake of 1923. He described the calamity of that in his autobiography.

 

Furthermore because of having been burdened with the controls which blockaded small and medium-sized numerous private firms and transferred their work to monopolistic national policy corporations authorized by the militaristic government, he was obliged to give up his business during the war. His store was burnt down by the second massive air raid on Tokyo in 1945.

 

"自伝抄録・祖父の肖像" is the extract from the autobiography of him who finished writing in January, 1943. It almost covers the full text excluding the lost part. It is in the Japanese language only.

   

自伝抄録・祖父の肖像

 

【案内】

 

明治17年に浅草で生まれ

昭和18年に書き終えた神田の商人の自伝(抄録)

 

安政の大地震の聞き書きから

尋常小学校をいくつも乗り換えた話

明治二、三十年代の浅草の様子

明治37年2月6日、宣戦の大詔を拝したときの興奮

欧州戦争の暴騰相場で綿布商にも成金が輩出した経過

関東大震災避難時の体験、損害、店を再建した経緯ほか

綿布売買の禁止により

昭和15年12月に廃業を強いられるまで

 

祖父の店は昭和20年に東京大空襲で焼失

祖父の没年は昭和24年

  

【無から無への軌跡】

 

雨の日、父が襤褸布団で寝ている枕元で

母と二人、足袋を甲縫いしている腑甲斐なさを悟り

私は仕事を探そうとしたが学問もなく資本もない

 

 §

 

欧州戦争勃発後の暴騰相場と戦後の暴落

大正関東地震の前年に長男病死

大震災直後の好況とその後の暴落

大正関東地震の翌年に長女病死

近江銀行休業による取り付け

恐慌による綿布相場の漸落、商品価格の低下

 

 §

 

勅令による綿布の売買裁断禁止、厳重な統制

 

取締官庁は我々業者を厳しく監視

私は業界の頭目視され、一層監視が酷く

国賊と罵られてまで金を儲けようとは思わず

疑いをかけられるようなことは極力避けたが

それでも幾度か取り調べを受け

何としても店を子供に引き継ぐまで頑張ろうとしたが

遂に辛抱出来ず

昭和十五年十二月、廃業した

  

【ご感想】

 

2004年09月に改めて「自伝抄録・祖父の肖像」を

自伝(文学)/明治(歴史)/震災/教育関連に宣伝しました

以下はその折に寄せられたご感想です

抜粋し編集しました

 

一気に読みました(最も多いご感想)

 

ますます当時の生活がゆかしくなった

 

浅草公園の絵描きの話や郵便集配の苦労のお話

足袋の販売や関東大震災の生々しい描写など

ふつうの文献では読むことの出来ない生活が伝わってくる

 

明治から昭和を生き

関東大震災の被災のなかでも逞しく生きた先人の記録

 

過ぎ去った時代の日常生活、とりわけ商店の暮らしは

通常見る資料にはほとんど現れていない

なによりも一人の個人の生の記録としての魅力

 

私の育った環境、私の今いる生活とは

まったく異なっているが慕わしく、印象深い記録/記憶

歴史の魅力をあらためて感じた一瞬

 

……私の表現活動全体については

 

独特な雰囲気

 

過去の記述であると共に

現在が過去に歴史化されていく自覚的で希有なページ

 

貴重な資料なので参考になる

整理されており、ネットを有効に利用した公開方法には

深く感じるところがある

 

「一代記」というか、一族の歴史を

余技を超えた形でこのように残していくこと

そして、それが一族には関係のない私にも

日本の歩みを伝えていることが……

  

  ※

  

自伝抄録・祖父の肖像 1/3

  

 この項では、昭和十八年一月に書き終えた祖父の自伝より、その抄録をご紹介します。自伝最終頁の画像がこちらこちらにあります。戦争で商売が出来なくなった折、祖父は部屋の隅で黙々と書き綴っていたそうです。まず祖先から----

  

 四郎左ヱ門(←祖父の曾祖父、下総國高木村)

 

  農業、長屋門があり相当な生活

  公役を勤める、玄関には常時御用提灯が立っていた

 

 勝蔵   (←祖父の祖父、四郎左ヱ門の長男)

 

  十三、四の頃、理由は不明だが家が疲弊

  神田柳原堤の武具師(剣道の面や小手を作る職業)「竹屋」に年期奉公

  年期を勤め上げ一人前の武具職人になる

  神田明神下に世帯を持ち妻(祖父の祖母)を娶る

 

  勝蔵は宵越しの金は持たないという職人肌、酒好き

  祖母は武家屋敷の右筆を勤め能筆、淑やか

  夫婦仲は円満

  二人の間に長女(ふじ)、長男(早世)、二男(銀次郎)、三男(金蔵)の一女三男

 

  銀次郎が祖父の父

  

 自筆の長唄の教本をはじめ母の資料のいくつかは、母の手元から持ち出されたままでしたが、祖父の自伝もその一つです。そのコピーが先週(1999年11月19日)、母の許に戻ってきました。

 

 コピーは最近のものではありません。紙の状態から判断しますと、数十年も昔のコピーではありますまいか。バラバラで、欠番もありました。母に拠りますと、記憶にある叙述が欠けているそうです。祖父存命の折、原稿は完全でしたが、未だに原紙は、有無も所在もはっきりしません。

 

 自伝を読みますと、昔の出来事が鮮明に伝わってきます。しかし祖父自身の家庭生活、および妻や子についての記述は、ほとんど見当たりません。

 

 次は安政(1854-1860)の江戸大地震(安政2年10月2日=1855.11.11)についてです。安政年間には、各地で有被害地震が13回、内、大地震が三回、江戸大地震の死者は七千人と伝えられています。

  

 安政の江戸大地震の時は、勝蔵一家は神田明神の境内に避難

 境内は避難民で一杯、明神様の山から見下ろす市中は一面、火の海で

 家族が桜樹の下で恐怖している時も、勝蔵は酒徳利を手放さなかった

 

 続いて王政復古、ご維新、武家階級の没落

 剣道の具は無用になり、勝蔵の職業に致命的な痛手、その折

 十分な手当てができず、勝蔵の妻、風邪をこじらせ死亡

 極貧の中、長女十七歳、末子六歳

  

 祖父の出自についての私の母の記憶には、自伝とは違っている部分があります。祖父から聞かされていた昔話の切れ切れが、短絡的に繋がってしまったのでしょう。一方、自伝には、私の母はよく聞かされていたのですが、貧乏ゆえの出来事で、世間体を憚って省かれている逸話があります。さて、勝蔵一家が離散して住込んだ先は

  

 勝蔵は流浪後、川越の太鼓屋金兵衛方で住込み職人となり

 五十八歳のとき脳溢血で死亡、身寄り不明として金兵衛方の菩提寺に埋葬される

 

 長女ふじは旗本秩父家へ奉公

 三男金蔵は下総小岩村のお寺へ養子

 

 二男銀次郎は最初「刀の鞘塗師」へ奉公、鞘塗りの仕事が減り、暇を出され

 浅草田原町の足袋問屋河合屋へ年期奉公

 十三年余り勤め、のれんと金一封をもらい二十七歳で独立

 田原町五番地、東本願寺の裏通りに小さな足袋屋を開店

 最初に迎えた妻は産褥熱で死亡、その長子も栄養不良で死亡

 埼玉県安立郡の左官職の長女が後妻に入り、明治十七年、祖父が生まれる

  

 自伝にはここで祖父の幼い頃の描写があります。どんな様子かと言いますと

  

 泣き虫、湯嫌い、気難し屋、蕎麦好き

 湯屋の敷居を跨ぐと泣き出し、湯上りの着物を着て外へ出るまで泣き通す

 母親は湯嫌いを治す呪禁だとして、浴槽のザクロ口へお供えを上げた

 

 祖父の遊び場は浅草の観音様の近くでした。境内は

 

 銀杏の老樹が聳え浅草の奥山と呼ばれていた

 仁王門の傍、鐘楼堂のあたりに弁天山という小高い丘があり

 ここにはさらに昔、池と、弁財天の祠があったとされ

 絶好の遊び場で、子供や子守りが大勢集まっていた

 祖父は遊びの帰り、決まってお婆さん(勝蔵の妹)に蕎麦屋に立ち寄るようせがみ

 持ち合わせのないお婆さんは事情を話し、代金を蕎麦屋から借りていた

  

 母は祖父の生年を、祖母の生まれた明治27年の八年前、つまり明治19年と記憶しています。没年から計算すると確かに明治19年になるのですが? さて、祖父の教育は

  

 祖父の隣家は漢学塾の盤水学舎、漢学塾は当時、市中のそこここに在った

 盤水学舎の先生には子がなく、祖父を愛想よく迎え、遊ばせてくれたので

 祖父は塾生の習っていた漢文の素読みを聞き覚えてしまった。親は喜び

 漢文初歩の本「三字経」を買い与え、祖父は塾生の中で声を張り上げ読んでいた

 

 近くの誓願寺境内には、僧侶の経営で俗に坊主学校と呼ばれ、百人足らずの

 昔の寺子屋のような私立の学校で、市立の代用という意味の代用小学校があった

 七歳のとき、祖父もこの代用小学校に入学

 入学祝いは、ふじ伯母さんからの鼻緒に模様の入った下駄だった

 

 ふじ伯母さんの嫁ぎ先は茨城県出身の士族、原寛孝

 原伯父さんの祖先は川中島合戦で名を馳せた原大潟守

 伯父さんは風采が立派で能筆、神田小川町で菓子店を営む

 菓子店で土瓶の口から水を飲み、お行儀の悪さを伯母さんにたしなめられ

 以後、祖父は伯母さんの菓子店へ行かなくなる

  

 当時の銀次郎の足袋店は改造足袋の製造卸だった

 改造足袋は、紺の小倉の、軍服の古着を掛継(かけは)いだ布を使用

 儲けがあり、銀次郎の生活は飲酒や小説本の耽読など怠惰になり

 足袋の売れ行きが落ち、夏涸れ対策のため小川町の床店を借りた麦藁帽子も失敗

 損がふくらみ、浅草の足袋店を閉めた

 

 一家は浅草清島町の報恩寺前、次いで浅草小島町へ引越し

 下谷竹町(佐竹仲通り)の中程に、家賃二円、間口九尺の店を借り足袋を売った

 通りは賑わったので足袋は売れたが、夏場の売り物として塩煎餅に手を出した

 その煎餅、卸屋から「生」を仕入れて焼くのと違い

 粉を挽き、蒸して搗き、乾かして焼くなど手数がかかりうまく行かず

 今度は人にすすめられ花見酒を売った、そのお花見は----

 

 その頃も上野か向島が第一だった

 当時の花見は、今の若い人には想像もできないほど悠長で愉快

 墨堤果てしなく続く桜樹の間に、茶店の赤い床几が続き

 目かずら(目の部分の仮面)売りやゆで玉子売り、花見酒売りがところ狭き列

 川には、赤い幔幕を張り巡らした花見船が、ゆるやかに棹さし弦歌さざめき

 仮装や、とぼけた姿の酔漢が一升樽を肩に掛け、往く交う誰彼の見さかいなく

 盞(盃)を差しつ差されつ、群がる人ごみを泳ぐように浮かれ歩いた

 

 銀次郎の酒売りも店とは名ばかりで、荷車に菰冠りを三つ並べ、内、二つは空樽で

 水で割った酒を売っても、売り方次第で酔客相手によく売れたが

 銀次郎の売り方は芳しくなく、家運挽回に苦慮するも、資金が尽き食い詰めた

  

 業界誌や組合から頼まれ寄稿する折、祖父は母に文法を確かめながら執筆していました。その母に祖父は養子をとり、戦後は私の両親に店の復興を委ねましたが、自伝には、店の屋号は、祖父の父が足袋問屋河合屋から分け与えられたとあります。店の象徴であるこの屋号----

 

 戦後、屋号の相続権について裁判が起こされました。母から「借り出された」祖父の自伝は、この訴訟に利用されたのかも知れません。屋号の相続権は両親の全面勝訴でしたが、昔の屋号に頼る商売は廃れており、誰にとっても不毛な裁判になりました。

 

 自伝は「貧困」を梃子に、自ら起業する努力と才覚の大切さを訴えています。同時に、できる者は自分で築けばよく、できない者は食い潰してしまうでしょうから、並外れた富裕や特権が内々に相続され、内々に譲られていく制度や習慣についても、考えさせられてしまいます----。自伝に戻ります。

  

 改造足袋の、材料の仕入に窮した銀次郎は店を閉じ下職になる

 足袋の受託加工だが、銀次郎は工賃のよい底張りを選んだ

 襤褸を買い、幾重にも糊で貼り合わせ、足袋底の表地へ裏張りする仕事で

 ゴム足袋のない時代、鉱夫が履く地下足袋の底づくりにあたり

 足袋の下職の中では最も「穢い仕事」とされ

 工賃はよいが日干しが必要で、雨天の時は仕事にならず、均せば低い賃率だった

 

 安い家賃と日干しの場所の必要から、銀次郎一家は浅草栄久町の龍宝寺

 俗称「鯉寺」の門前で、家賃二円、鉄葺き四軒長屋の一つ

 八畳と二畳の借家へ転居、佐竹仲通りの店は手放した

 鯉寺近く、川幅四~五間の新堀(その後、暗渠)では夏の大雨時

 相当獲物があったので、増水した川に四つ手網を掛けた

  

 この頃、祖父は小学生

  

 通ったのは誓願寺学校、岡田学校、育英学校、川勝学校

 転校理由は「引越し、本人が嫌った、月謝が高い、教え方が悪い」など

  

 この頃、祖父は病弱

  

 八歳のとき脳病で半年寝る

 次いで麻疹の予後が悪く肺炎になり一年寝る

 祖父は欠席がちな小学生だが大概首席

 当時の小学校では優等は各級一人で

 区の教育会会長が賞状や賞品を授与

 川勝小学校では試験の結果、一級飛び越して進級

  

 小学校時代の嬉しい思い出は

  

 運動会の時、メリヤス製、藍色太い段々染の運動シャツを買ってもらったこと

 運動会の競走で最下位だったのに一着(というゲーム)で賞品を授かったこと

 この時の賞品は学筆?

 当時、学生は羽織に二尺以上もある紐をつけるのが流行

 白い丸打ちの太い紐で、先を結んで頭へ掛け幕末の壮士を真似たが

 その紐を買ってもらった時も嬉しかった

 当時は学校で式があると、四年生以上に祝詞を読ませたが

 四年になって、天長節の祝詞を読まされたときの祖父の嬉しさ

  

 尋常四年で祖父は卒業(義務教育年限は四年)、以降、自伝は貧乏一色になります。

  

 小学校時代の祖父の弁当箱は銀次郎の使い古しで

 漆塗り三つ組の二つを持参

 子ども用の小さな三つ組は買ってもらえなかった

 祭りは揃いの浴衣に揃いの鉢巻だったが

 鉢巻用の手拭いは、あり合わせだったので身が引けた

 通学帽は安物で引け目を感じ、被らないことが多かった

 

 銀次郎の住んでいた四軒続き長屋の住人は

 

 人力車夫、新聞配達、人力車夫(の子は仲良しで後年、駅の助役)

 その裏の二軒続きの長屋は下駄職人と講釈師

 講釈師の荒井さんは職業柄、話し上手で

 銀次郎方に遊びに来て、よく話し込んでいた

 荒井さんは、新聞附録を綴じ合わせた大岡政談や柳生旅日記を

 祖父に貸し与え、祖父は夢中になって読んでいた

 

 荒井さんは銀次郎夫婦に

 祖父を講釈師にしてはどうか、師匠を世話すると持ち掛け

 本人は満更でもなかったが、銀次郎夫婦は断わった、その理由は

 一生、前座で終わるなら、俺のような足袋職人と変わらない----

 

 夫婦は質入れの話や質物の持ち出しなど

 生活苦を祖父の目から隠そうとしたが

 昨日、着ていた父親の半天が

 今朝は、白い飯に変わっていたのを祖父は知っていた

 

 家賃二円の家の「食い潰し」は祖父一人だけで

 父親は好きな酒も滅多に飲まず

 一ヶ月の生活費は高々十七、八円だったが

 それさえも一家には稼げなかった

  

 自伝のコピーはここで貧乏の描写が一枚抜けています。新たな頁の冒頭は「見られると恥ずかしいといふ虚栄に他ならぬのだ。」で始まり、楽しみの描写が続きます。

  

 南京米の等分に混ざったお米を二十五銭ほど買って帰る途中

 新堀の橋の際に出ていた煮込み屋で

 豚の臓物の串刺しを味噌で煮た一銭四本の「牛煮込み」を買い

 片手にお米の風呂敷、片手に煮込みを下げて帰る楽しさ

 

 真冬の夜など、両親がランプの下で懸命に仕事中

 命じられ、買ってきた焼き芋の風呂敷を広げ

 湯気の立つのを、親子で囲んで食べる美味さ

 

 貧しくとも、生きていれば楽しみがあった

  

 祖父の夢は絵を描くことでした。豊かになってからは、綴じた和紙に向かって花鳥をスケッチ、あるいは人物をデッサンしていた祖父は、母とは対照的にすべて我流でした。

  

 浅草公園には惨めな姿の爺さんが茣蓙に坐って

 「梅に鶯」「恵比寿大黒」を描いて売っていたが

 描き終わって筆を置くまで、見ているのが何よりの楽しみで

 祖父は両親に、絵描きになりたいと志望を漏らし

 祖父の絵好きを知って、両親に勧めてくれた人もあったが

 

 銀次郎の知人で藤井某という屏風絵の畫描きが

 描いた紙本半切の上手な畫が、一枚三銭でも売れず

 絵描きでは生活できないと父に諭され

 如何に好きでも、両親のように惨めな生活で一生を送るのかと思うと

 子供心にも好ましいとは思えなくなり、絵描きの志望を捨ててしまった

  

 十三歳の春、尋常小を卒業(病欠のため二年遅れの卒業)そして小僧に----

  

 当時、小僧はほとんど七年の年季奉公

 つまり徴兵適齢まで働ける十三歳位が歓迎された

 

 隣人の鞄屋が、儲けて浅草老松町へ店を開いた、その鞄屋を

 両親はとてもよい商売と考え、奉公に遣ることに決め

 赤飯と尾頭つきで祝ってくれたが

 膳に向かった祖父は、胸が一杯で祝いが喉を通らなかった

 

 しかし奉公ともなると親の膝下とは辛さが違い

 半年あまりで鞄屋から逃げ帰ったのが「はじまり」で

 

 貝細工職人のところも辛抱できず

 

 浅草駒形町の鼻緒問屋では、乳母と一緒に子守りさせられ

 仕事が覚えられないからと今度は親が暇をとらせ

 

 浅草広小路の、輸出用に壁飾りの面を作っていた人形師方では

 職人の休み(一日と十五日)に小遣いを貰え、朋輩と浅草公園へ出かけ

 玉乗り、奇術、パノラマ活き人形、十ニ楷で遊び

 常盤座では水野好美や河合武雄の、五寸釘の寅吉や蝮のお政を

 大入場(普通席)に、入場料三銭払って入ったが

 喜んだのはつかの間で

 休みに職人方の二階で、大勢が集まっての花札に

 親は顔色を変え辞めさせた

 

 股引や腹掛けも卸していた神田柳原の足袋屋では

 座敷まで上がる飼い犬の、糞便を朝夕掃除させられ逃げ帰り

 

 親も呆れ果て、奉公に出すのを諦め

 手伝わせることに決めた親の言葉は

 足袋屋でも、俺のように貧乏人ばかりでなく、長者議員になった人も----

 

 親子三人で働いたが

 残るものは何もなかった

  

 祖父の文章は、私の文同様、誤字や我流の言いまわしが目につきますが、意味さえわかれば、むしろ親しみを感じます。一方固有名詞は、正誤の勘が働かないので弱ります。情報の多くは見聞だったのでしょうから、固有名詞の文字は鵜呑みにしない方が無難です。

 

 次は明渡し騒動、次いで郵便局の集配人時代の想い出が続きます。なお、年齢は満か数えか不明です。日露戦争の記述からすると、祖父の生年は明治17年になりますが享年の年数を遡りますと辻褄が合いません。因みに祖母と祖父で行年の表記が異なっています。片や満、片や満より二歳上ですが、どちらが下駄を履いているのか分かりません。私の父の行年表記は、今でも実際の年齢より二歳上でした。

  

 祖父十七歳の時、家主が長屋全体に明渡しを迫った

 当時「下等」な住宅の便所の多くは油樽を使用

 非衛生を理由に官庁が陶製に改造命令----は表向きで

 この機に家賃滞納者を立ち退かせる算段(祖父の一家も滞納組)

 

 しかし移転先がないとして一軒も立ち退かず

 業を煮やした家主は長屋中の便所を取り壊し

 共同便所通いになった住人はやむなく一斉に立ち退いた

 

 祖父の移転先は電車停留所の近く、細い路地の奥で

 貧乏で有名な「いろは長屋」に隣接した八畳一間、家賃二円六十銭

 

 移った借家には空地がなく、足袋底を干すのに屋根を使用

 家主は家が傷むと屋根干しの中止を厳命

 飢えてしまうので懇願のすえ、屋根の破損は自弁を条件に承諾を得たが

 家主は銀次郎と同業ゆえの情状だった

  

 三年の歳月が経ち、祖父二十歳

  

 祖父の父親(銀次郎)は健康がすぐれず寝ている日々

 仕事は干し場が狭く能率が上がらず

 祖父の弟は四、五歳で母親の手がかかり

 引越しを望んでも金がなく

 一家は窮乏の極にあった

 

 雨の日、銀次郎が襤褸布団で寝ている枕元で

 母親と二人、足袋を甲縫いしている腑甲斐なさを悟り

 祖父は仕事を探そうとしたが、学問もなく資本もない

 

 貧乏すると人力車夫になることが多かったが

 座業で、体も小さく、人力車夫には自信がなく

 明治三十六年ニ月、両国郵便局の集配人を志願

 身元保証人の資格は国税三十円以上の納税者だったが

 ある人の厚意で保証人を立てられ、五月に試用された

 

 試用初日は草鞋の履き方を教えられ

 鞄を抱えポストから郵便物を集める仕事で

 両国郵便局の収集区六区を一日五、六回、一回につき五十分

 十七から二十五のポストをまわり、遅れると厳罰だった

 

 集配人の前身は医者の書生、酒屋の御用聞き、俳諧の先生

 新聞配達、八百屋、人力車夫など

 綽名は象、馬、狐、羅漢、土左衛門、らっきょう、カッポレ

 最も小さかった祖父の綽名は観音様

 

 慣れた集配人は、自分の休憩時間に欠員の代番を務めていた

 代番は一回につき六銭の臨時収入になったので

 希望者が多く籤で決めたが

 代番目当てに、古参連中は遠回りの道順を教え

 新参を潰そうとはかっていた

 

 本務がはじまって六日目に祖父の脚は大根のように腫れ

 下駄を履いても感覚がなくなり

 歩くと足の甲が下駄で踏みつけられたように痛んだ

 

 鳥越町方面を収集中、ある理髪店の前で歩けなくなって

 大分遅刻して帰ったところ

 局員は同情して寛大に対処してくれたが

 暮れ方に帰り、寝込んでしまった祖父の脚を

 母親は夜通し介護

 祖父が目を覚ますと

 朝食の支度とお弁当と母親の涙があった

 

 三週間目に入ると、朝の痛みも昼には和らぎ

 祖父の母親は雀踊りするように喜んだ

 

 一月ほどで三等集配人を命じられ、日給三十銭の辞令

 

 集配人の勤務時間は八時出勤、夕方まで勤務、三日目に宿直

 宿直の翌日は休み、休みは家で足袋作りの座業

 

 宿直には弁当代として六銭支給(局で食べる弁当は五銭五厘)

 事故や欠勤のない月は勤勉賞与として日給の五、六日分支給

 代番での稼ぎを含めると一ヶ月十三円位の稼ぎ

 

 当時の物価は理髪十ニ銭、湯銭三銭、花王石鹸六銭、安うどん二銭

 草鞋三銭、襤褸で作った草鞋六銭

 集配は襤褸で作った草鞋を使い、晴天なら十日ほど持った

 

 翌明治三十七年二月六日、宣戦の大詔を拝した

 

 その前夜、宿直だった祖父は仕事を済ませ

 午前一時頃、布団を被り、まどろんだところ

 全員「動員令」の電報の配達を指示され

 相手は世界一の強国、しっかりしないと負けると言い合い

 一晩中、駆け回った

  

 両国郵便局の集配業務はその年の五月に廃止

 集配人は中央局、神田局、浅草局などに配置換え

 祖父は神田局の勤務を命じられたが

 十一ヶ月続けた集配業務で三十七円ほど貯金

 この「大金」を資本に商売に意欲

 神田和泉町の劇場近く、角店の床店を家賃二円七十銭で借り

 足袋の販売と前後して集配人を辞職

 

 父親には店番を頼み

 祖父は母親と足袋作りを手筈

 

 さらに「大枚」三十余円を持参

 神田柳原の市場で股引と腹掛を仕入

 床店に並べたが

 仕入額三十円では売るだけの品数がなく

 二ヶ月ほどで商品仕入を中止

 資金を改造足袋の材料に充て

 

 足袋問屋のある浅草三間町近く、浅草福富町へ移転

 裏は干し物に都合のよい空地

 真剣の意気で足袋の製造を開始

  

 俗に正月の三月(みつき)倒れという言葉がある

 正月に遊んでしまって、三ヶ月分の稼ぎが消えてしまう喩えで

 下職が遊んでしまう正月は仕事にならないので

 江戸橋の中央局の臨時郵便夫に応募

 局内の仕事で徹夜勤務、日給五十銭

 隔日休みで、一日働くと二日分の給料

 出来るだけ休みの日は足袋を作った

 

 正月を過ぎると臨時郵便夫を解雇され

 再び懸命に足袋を作った

  

 ある日、家主から明け渡しを要求された

 自分の住まいを増築するため、貸し家を取り壊すのがその理由

 祖父は転居して日が浅かったので

 家主も気の毒に思い移転料を払うという

 多くの場合、移転料が少ないので立ち退かないとなるのだが

 銀次郎は

 貧乏しても、まだ移転料をもらって立ち退いたことはないと拒否

 家主を呆れさせたが

 五円紙幣一枚が入った紙包みを開いて

 銀次郎は喜んだ

 

 今度は祖父の生地、浅草田島町の

 二十五番地にある裏長屋へ引っ越した

 六畳と二畳で、家賃は二円四十銭

 ここで底張りの下職はやめ

 親子で改造足袋を作り

 仕事は祖父が先導

 一家は狂気のように働き

 長屋には、嘲り笑った者さえあったらしい

  

 長屋の住人は

 夜店の草履屋、人力車夫、人形作りの職人、玉乗りの出方

 羅宇竹屋、露天の洋食屋、屋台の鮨屋

 浅草で有名になった寿司清も、その頃はこの長屋に住んでいた

 

 祖父の隣りには住まいが小綺麗で、妙な商売人が住んでいた

 友引は休んだが、毎朝羽織姿で、子まで連れぞろぞろ出かけ

 葬式の菓子を貰ってまわり

 菓子屋に売り

 菓子屋は再製して売り直すとの噂だったが

 四年間、隣り合ってもその真偽は不明

 

 この菓子は方々から買いに来た

 著名な菓子屋の立派な菓子が一折五、六銭なので

 仕舞いには祖父一家もよく買って食べた

 

 この商売を「上がり込み」と言った

  

 この頃の祖父の楽しみは

 週に一度、夜業の後に、近くの蛇骨湯で入浴することであった

 場所柄、蛇骨湯の終業は遅く、夜の一時頃

 祖父は、番頭が砂で流しを洗う時刻に入浴することもあった

  

 湯の帰りに夜店をうろつき絵葉書を見るのも楽しみだった

 日露戦争当時、絵葉書が熱狂的に流行ったが

 戦争記念絵葉書は発行直後、右から左へプレミアム付きで売買され

 絵葉書屋の夜店が至る所に現われ

 様々な絵葉書を白い封筒に入れ

 福袋と称し

 一袋一、二銭で売っていた

 大勢の人が押合いながら封筒を燈火に透かす

 中に優秀品が入っている袋があったので

 祖父もそれを当てようと

 湯の帰りに福袋を買い

 封筒を破る一瞬が無上の楽しみであった

  

 祖父の店も正月三が日は休むようになり

 或る年、小石川伝通院へ初詣に出かけたが

 伝通院には、大黒様の像を刷り込んだ小さな紙片が一杯あった

 この紙片、願掛けが叶った人が納めたもので

 紙片を貰って帰り

 新願を込めて仕舞い込み

 願いの叶った暁には甲子に紙片を祭り

 同じ像を千枚刷って配り

 信者を募る風習を出世大黒と言った

 

 祖父も一葉、貰って帰り

 四十歳までに数十万円儲けられますようにと大それた願を掛け

 像を箪笥の底深く収蔵したが

 

 祖父四十歳(数え?)の年(大正十二年)、商品工場、店舗、家作など

 少なく見積もっても二十万円余りの財産が灰燼に帰してしまったが

 大黒様を箪笥から出してお祭りしなかった罰だったのか----

  

 日露戦争の日本海海戦は明治三十八年五月二十七日だが

 大本営からバルチック艦隊全滅の報があったのは二十九日の夕方で

 新聞全紙大の号外を手にして祖父は狂喜

 その折の嬉しさ----、有難さ----

 この号外は惜しくも震災のときに焼いてしまった

  

 祖父一家は精根の限り稼いだので

 最初の年は五十円、次の年は百円を貯金

 四年目には四百円余りの貯金と、足袋の材料二百円分を残し

 現金は豊国銀行に預け

 預金帳を密かに開いては

 親子で笑みを交わしていた

  

2/3 www.flickr.com/photos/asa-moya/416810255/

3/3 www.flickr.com/photos/asa-moya/416810250/

 

着物の模様

遠い昔のこぼれ話【1】

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Old photos at Kanda in Tokyo

 

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Taken on March 11, 2007