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納豆の茶漬け | by beehivemode
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納豆の茶漬け

強烈長文の引用です

 

北大路魯山人のうんちく、こだわった結果、贅を尽くした堅物料理に押し上げてしまった食道楽。庶民はもっと適当でおいしく食べれるのを期待してるの( ͡° ͜ʖ ͡°)

納豆茶漬けも美味しいと思うけど食べる時濁って味も薄まって納得行かない味の濃さにならないかなって。

 

僕だったら具が入ってないお茶漬けにして

口に注ぎ込むタイミングで

付け合せとして納豆、マグロとかを都度乗せて食べる

その時に、万能ねぎや 生姜、わさび等

薬味も絡めて

カツオの腸の塩辛「酒盗」みたいな味わい方

 

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味覚馬鹿

北大路魯山人

  

 美味《うま》い不味《まず》いは栄養価を立証する。

     *

 天然の味に優《まさ》る美味なし。

     *

 現今《げんこん》の料理は美趣味が欠如している。

     *

 料理つくるも年齢、食う好みも年齢。

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 料理をつくる者は、つとめて価値ある食器に関心を有すべし。

     *

 高級食器、美器をつくらんとするものは、美食に通ずべし。

     *

 栄養価値充分にして美味にあらざるものは断じてない。美味なれば必ず栄養が存する。

     *

 味覚は体験に学ぶ以外に道はない。良体験をもったものは、よい料理ができ、よい味覚がそなわり、幸せであり、美味いもの食いの資格が高い。

     *

 現在、純日本料理はないであろう。

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 料理を味わうにも、三等生活、二等生活、一等生活、特等生活と、運命的に与えられている生活がある。またそれに従って作るところの料理がさまざまである。

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 貧乏国になった日本料理、それが生んだ料理研究家の料理、毎日ラジオ、テレビで発表されている料理。これが貧乏国日本の生んだ料理研究であり、栄養料理の考えである。

     *

 一顰一笑《いっぴんいっしょう》によって愛嬌《あいきょう》をまき、米を得んとする料理研究家がテレビに現われて、一途《いちず》に料理を低下させ、無駄《むだ》な浪費を自慢して、低級に生きぬかんとする風潮がつのりつつある。

     *

 もともと日本料理の中で生まれたわけではないから、現今《げんこん》のごとく低級の谷へ谷へと下降しつつある。このあり様《さま》は見るに忍びない。内容の重きに注意せざる者は、勢い外表のデザインのみに走る。

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 要求する食物に不味《まず》いものなしだから腹が空《へ》るにかぎる。

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 うかうかと元味を破壊して、現代人は美味《うま》いものを食いそこなっている。

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 手をかけなくても栄養も摂《と》れ、美味でもあり、見た目も美しいものを、いたずらに子供を騙《だま》すような料理をつくることは、料理人の無恥《むち》を物語るものであろう。

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 日本料理といっても、一概《いちがい》にこれが日本料理だと簡単にいい切れるものではない。いい切った後から、とやかくと問題が起こり、水掛《みずかけ》論が長びき、焦点がぼけてしまうのが常だからだ。昔もそうだが、近頃ではなお更《さら》である。

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 日本人が常に刺身《さしみ》を愛し、常食するゆえんは、自然の味、天然の味、すなわち加工の味以上に尊重するところである、と私は思っている。

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 すべて本来の持ち味をこわさないことが料理の要訣《ようけつ》である。これができれば俯仰《ふぎょう》天地《てんち》に愧《は》ずるなき料理人であり、これ以上はないともいえる。

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 次が美の問題である。

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 料理も美味《うま》い物好き、よい物好き、なにかと上物《じょうもの》好き、いわばぜいたく者であってこそ、筋の通った料理が生まれるのである。

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 味に自信なき者は料理に無駄《むだ》な手数をかける。

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 低級な食器にあまんじている者は、それだけの料理しかなし得ない。こんな料理で育てられた人間は、それだけの人間にしかなり得ない。

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 料理といっても数々ござる。料理屋の料理、家庭料理、富者《ふしゃ》の好む料理、貧者の料理、サラリーマン級の料理、都会料理、田舎《いなか》料理、老人好み、若人《わこうど》好み、少年少女向き、病人向き……。すべからく料理をつくる者は、この別を心得、いやしくも自分の好みだけを押しつけてはならない。

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 これほど深い、これほどに知らねばならない味覚の世界のあることを銘記《めいき》せよ。

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 料理の世界にしても、これですべてがわかったという自惚《うぬぼ》れは許されぬ。いつもいつも夢想だに出来ないことが存在することを知らねばならぬ。

     *

 飽きるところから新しい料理は生まれる。

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 私が自分自身でふしぎなと思われるくらい考えつづけているのは食物、すなわち、美味探究である。つまらないものを食って、一向気にしない人間を見ると馬鹿にしたくなる。私は今でも自炊《じすい》している。三度三度自己満足できない食事では、すますことができないからだ。美食の一生を望んでいる。傾聴《けいちょう》すべき食物話が乏しくなったことは晩年の私を淋《さび》しがらせる。この点でも私は孤独だ。

     *

 料理研究家と称される人々が昨日に今日にテレビで料理講習をやっている。美味と感ずるもののなかで視覚にたよるものが大《だい》な料理なのに、テレビ料理に出てくる先生というのが、調理するのに腕時計・指輪をはめたまま、ひどいのになると、ご丁寧《ていねい》にも爪紅《つまべに》までしている。こんなのを見ると、食欲減退である。それに料理研究家が揃《そろ》いも揃って爺《じい》さん婆《ばあ》さんなので、テレビで大写しにされる手が、これまた揃いも揃って薄汚い。料理はもともと理《ことわり》を料《はか》ると書く通り、美味《うま》い不味《まず》いを云々《うんぬん》するなら、美味の理について、もっと深く心致さねばなるまい。

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「綺麗《きれい》に盛りつけます」という言葉に誘われて、食器はと見れば、これまたガラクタばかり。食器は料理の衣裳《いしょう》だということを、ご婦人講師さんとくとお考えあれ。

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 衰える食器。今日、大方《おおかた》の日本料理がわれわれに満足を与えない状態にある。これすなわち、食器の衰えは、料理界の衰えの影響であるといい得られるのである。

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 新鮮に勝る美味なし。

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 自然の栄養価値、栄養の集成が味の素である。

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 低級な人は低級な味を好み、低級な料理と交わって安堵《あんど》し、また低級な料理をつくる。

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 京都は、昔から料理がもっともよく発達していた。ここには長く皇居があった。しかも、四周《ししゅう》山々に囲まれて、料理の料理とすべき海産の新鮮なさかながなかった。ここに与えられた材料は、豆腐、湯葉《ゆば》、ぜんまいなどであった。この一見まずい材料をもってして、貴族、名門の口を潤《うるお》すべき料理を考案しなければならなかった。こうした材料、こうした土地柄が、立派な料理の花を咲かせたのは理の当然といえよう。

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 まぐろはいつ頃、どこで獲《と》れたのが美味いとか、たいはどうして食べるべきであるとかいうようなことを知っているのが、いかにも料理の通人《つうじん》のごとく思われている。

 だが料理はそんなものではない。ほんとうに美味いものを食べたいと思う食通は、まず飯《めし》を吟味《ぎんみ》しなくてはならぬ。飯のよしあし、また飯と平行して、煮だしこぶのよしあし、これを果してどのくらい知っている人があるだろうか?

 美食は物知りになることではない。もっともよく使われる、手近な、料理の原料になる、これらのものを正当に知らなくてはならぬ。

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 わさびもどこで採《と》れた、どのくらいの大きいものがいい、というようなことは誰でもよく話すことである。だが、どんなわさびおろしで、どんなふうにおろすのか知っている人は、存外|玄人《くろうと》の中にすら少ないものである。

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 そういえば、台所道具がどこの家もなっていない。よく切れるいい庖丁《ほうちょう》、大根おろし、わけてもかつおぶしを削る鉋《かんな》のごとき、どれも清潔で、おのおの充分の用に耐えるべき品が用意されていないように思う。

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 いいかね、料理は悟ることだよ、拵《こしら》えることではないんだ。名人の料理人というものはみなそれなんだね。

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 今日《こんにち》の料理界なんてものは、ほかの世界に較《くら》べたら、底が知れている。料理界には穴があるんだ。あるといえばあるが、しかし、ほんとうのことはわからん。仮にいってみればあるというだけでね。要は、料理のために料理のことを知る、それよりほかに手はない。そうしてほかの先生を仔細《しさい》に検討してみるといい。

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 わさびの味が分っては身代《しんだい》は持てぬ。

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 栄養を待っている肉体に要求がなくなれば、美味にあらず効果もなし。

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 外人でも日本人でも、料理を心底《しんそこ》から楽しんではいないようだ。味覚を楽しみたい心は持っているが、真から楽しめる料理は料理屋にも家庭にもないからであるらしい。栄養栄養と、この流行に災いされ、栄養薬を食って栄養食の生活なりと、履《は》き違えをしているらしい。

 えて栄養食と称するものは、病人か小児が収監《しゅうかん》されているときのような不自由人だけに当てはまるもので、食おうと思えばなんでも食える自由人には、ビタミンだのカロリーなど口やかましくいう栄養論者の説など気にする必要はない。

 好きなものばかりを食いつづけて行くことだ。好きなものでなければ食わぬと、決めてかかることが理想的である。

 鶏《にわとり》や飼犬のような宛《あ》てがいの料理は真の栄養にはならない。自由人には医者がいうような偏食の弊《へい》はない。偏食が災いするまでには、口のほうで飽《あ》きが来て、転食するから心配はない。

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 売ることを目的としてつくった料理が料理として発達し、日本料理の名をなしている。また一面、富豪《ふごう》が多数の来賓《らいひん》を招いて饗宴《きょうえん》する料理、体裁を主とした装飾料理があって、これもまた一種の日本料理として早くから発達し、その存在が許されている。

 このほかに庶民が日常食として親しみを持つ郷土料理があって、これをお惣菜《そうざい》と呼び、日本食の代表的な地位を占め、日本人一億人ありとせば、九千五百万人はお惣菜という簡易日本料理によって生活し、これはこれなりに、愚《おろ》かながらも旧来の食に楽しみをもっているようである。

 しかし、万人《ばんにん》が日常食とするお惣菜料理の大部分は、あきらめの料理であって気の毒である。高いものは食えない、料理の工夫は知らない、旧慣をあり難《がた》いものにして、自分たちはこれでよいのだとあきらめているからである。

 これにつけ込んだというわけでもあるまい、放送料理という困った料理放送が続いている。

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 美味《うま》い不味《まず》いは無意味に成り立っているものではない。栄養の的確なバロメーターである。

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 料理は自然を素材にし、人間の一番原始的な本能を充《み》たしながら、その技術をほとんど芸術にまで高めている。

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「人はその食するところのもの」と、ブリア・サヴァラン(『味覚の生理学』の著者)はいっている。その人の生活と、大きく考えれば人生に対する態度が窺《うかが》われる。

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 ほんとうにものの味がわかるためには、あくまで食ってみなければならない。ずっとつづけて食っているうちに、必ず一度はその食品がいやになる。一種の飽《あ》きが来る。この飽きが来た時になって、初めてそのものの味がはっきり分るものだ。

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 料理の本義といったところで、別段むずかしいことはない。要するに美味《うま》いものを食うことである。しかし、美味いものといっても、値段の高い安いには関係がない。美味いものといえば、工夫によると思う者もあるだろうが、工夫だけでもだめだ。

 料理のよしあしは、まず材料のよしあしいかんによる。材料の選択次第である。だから、材料の眼利《めき》きが肝心《かんじん》である。これは今まであまりいわれなかったが、従来の料理論のエアポケットだ。どのだいこんが、どのたいが、どのかつおぶしが美味いか、という鑑定、これがまず第一で、これを今まではお留守にしていた。これを抜かしては問題にならん。材料を見分ける力をまずつけること。こぶでも、ピンからキリまである。つまり、人絹《じんけん》と本絹《ほんけん》との区分で、自然のものにも人絹みたいなつまらんものもある。

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 なんでもすべて基礎工事が大切だが、食物でもまず基礎教育が必要だ。豚でもいろいろある。何貫目ぐらいの豚、たいでも何百|匁《もんめ》のたい、というふうに行かねばならぬ。鶏《にわとり》でも年|老《と》ったのは不味《まず》い。卵を生む前のが美味い。かように鶏といっても千差万別である。

 また料理では加減が大切だ。同じ材料でも、加減次第で美味くも不味くもなる。加減を知ること、それには料理でも、やはり、学ぶことが必要で、群盲《ぐんもう》象《ぞう》を撫《な》ずるようなことではいけない。

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 料理を美味く食わすという点からいえば、同じものでもよい器に容《い》れる。景色のよいところで食うことが望ましい。叶《かな》わぬまでも、なるべくそういうふうにする心がけが必要である。アパートでも、部屋をよい趣味で整えて食事をする。そういう心掛けが、料理を美味くする秘訣《ひけつ》だ。ただ食うだけというのではなく、美的な雰囲気《ふんいき》にも気を配る。これが結局はまた料理を美味《うま》くする。

 絵でも、書でも、せいぜい趣味の高いものに越したことはない。これまた心の栄養で、人間をつくる上の大切な肥料なんだから。

 料理というと、とかく食べ物だけに捉《とら》われるが、食べ物以外のこれらの美術も人間にとって欠くことの出来ない栄養物なんだから、大いに気を配ることが肝心《かんじん》だ。事実、食事の場合に、生理的にも好《よ》い影響があるようだ。

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 僕のところに婦人雑誌の記者などが、なにか料理について話してくれって雑誌の記事をとりに来る。だが、そんなのにいったって、真に分ろうとしないんだから、いったってつまらん。なんでもそうだが、ちょっとおつとめで記事を取りに来る人なんかに、なにを話せるものかって、いつも話しゃしない。書く本人が分らんで、美味なんて記事はどうして読む人に分ると思えるものかって、いつもいってやるのさ。

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 良寛《りょうかん》が否認する料理屋の料理とか、書家の書歌|詠《よ》みの歌の意は、小生《しょうせい》、双手《もろて》を挙げて同感するが、世人は一向反省の色を見せない。世人の多くは真剣にものを考えないとしか考えられない。

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 それにはそれの訳がある。もともと料理には無理がある。

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 貧しき人々が貧しき人々の好みの料理をする。これはマッチしていて苦情はない。

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 貧しき人々が富める人々の食事に手を出すでは、うまくマッチしない。

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 貧しき人々と富める人々の中間に在る人々の料理は、まず貧しき人々の手になるであろうが辛抱《しんぼう》の出来るところ、出来なくてもしようはない。

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 富める人はなんとしても貧しき人々の手で出来た料理を口にする以外に道はない。貴婦人は台所で立ち働く習慣がないからだ。

 明治の元勲《げんくん》井上侯のように、あるいはアイゼンハウワーのように、来賓《らいひん》に供する料理は必ず自分でつくる、あるいは監督もする、献立《こんだて》はもちろん。こんなふうな人が多々あると、貴族は貴族同士、富豪《ふごう》は富豪同士で楽しめるわけだが、いずれの国にあっても、そうなってはいない。こうなると貧しき人々が、貧しき人々の好む料理をつくることが一番幸福であるようだ。

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 野菜は新鮮でなければならぬ。八百屋《やおや》に干枯《ひから》びて積んであるものを買わず、足まめに近くに百姓家《ひゃくしょうや》があれば自分で買いに行くがいい。かえって安価につくかも知れない。

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 台所のバケツにほうれん草を二日もつけておく人がある。ほうれん草は、台所用いけばなにあらず。

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 砥石《といし》は庖丁《ほうちょう》に刃をつける時に使え。使用後の手入れをちょっと怠《なま》けると、すぐに庖丁はさびのきものをきてしまう。たまねぎも、きものを脱がして食べるのだから、庖丁も、きものを着たまま使うな。

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 さかなを焼く時は……、

 さかなというやつは、おもしろいものだ。じっと目を放さずに見つめていると、なかなか焼けない。それなのに、ちょっとよそ見をすると、急いで焦《こ》げたがる。

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 人間は目をつけていると、急いで用事をするが、目をはなすと、さっそく怠けている。

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 どうしても料理を美味《おい》しくつくれない人種がある。私はその人種を知っている。その名を不精者《ぶしょうもの》という。

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 餅《もち》の中にも食べられぬ餅がある。やきもち、しりもち、提灯《ちょうちん》もち、とりもち。

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 煮ても焼いても食えぬというしろもの[#「しろもの」に傍点]がある。せっかくの材料を煮たり焼いたりしたために、かえって食えなくしてしまう人もいる。お化粧したために、せっかくの美人がお化けになってしまうことだってある。

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 ラジオで料理講習しているのをときどき聞いている。まさか豚や犬に食わす料理の講習ではあるまいな。豚や犬に食わせるようなものを配給したりするから、そこでラジオも、豚や犬に食わす料理を放送せねばならなくなるらしい。これは辛抱《しんぼう》料理ばかりだ。そして今に、優生学の講習の後で、おそらく種男を募集するつもりだろう。

     *

 客になって料理を出されたら、よろこんでさっそくいただくがよろしい。遠慮しているうちに、もてなした人の心も、料理も冷《さ》めて、不味《まず》くなったものを食わねばならぬ。しかも、遠慮した奴《やつ》にかぎって、食べ出せばたいがい大食いである。

     *

 腹が空《へ》ってもひもじゅうない、というようなものには食わせなくてもよい。

 腹がいっぱいでもまだ食いたい、というようなやつにも食わせなくてもよい。

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 食事の時間がきたら食事をするという人がある。食事の時間だから食べるのではなく、腹が空ったから食べるのでなければ、美味《おい》しくはない。美味しいと思わぬものは、栄養にはならぬ。美味しいものは必ず栄養になる。

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 心配するな、舌のあるうちは飢えぬ。

 だが、女と胃袋には気をつけよ。

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 腹が空っては戦《いく》さが出来ぬ。戦さをしなくなった日本に、腹が空ることだけを残してくれたのは悲劇だろうか。そんなら、なにを食べても美味しくはないという金持の生活は喜劇か。悲劇は希望を求め、喜劇は希望を忘れている。

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 一に加える一は二なり。万歳《まんざい》は一加える一は三。万歳は二人でしゃべる。二人でしゃべるから一人でしゃべる時の二倍のボリュームがあるかというと、さにあらず、それよりはるかに効果は大きい。

 塩は万歳《まんざい》に似ていると思え。一合の汁に入れた塩の十倍を一升の汁に入れて煮て見|給《たま》え。集団すれば強くなるのは人間だけとはかぎらない。

     *

 料理を教えるのに、塩何グラム、砂糖何|匁《もんめ》などと、正確に出すなら、ねぎを適宜《てきぎ》に刻《きざ》み、塩胡椒《しおこしょう》少々などというな。なになにを何グラムというような料理法を、科学的文化人の生活だと思っている人がある。科学的文化人とは、塩何グラムではなく、科学する生活態度を身につけた自由人のことである。

     *

 野蛮人《やばんじん》には、歯磨き粉を呑《の》ませても、胃病がなおるということだ。

 ライスカレーをつくる時、メリケン粉と炭酸をまちがえて入れる人が居はせぬか。しかも、食べてなおかつ気付かぬ人も、なきにしもあらず……。ただし、こんな料理は胃病のときにかぎりつくれ。

     *

 料理をする時は、女の人は特に頭を手拭《てぬぐい》でカバーして料理すべし。ふけや髪の毛は味の素の代用にはならぬ。

     *

 美味《うま》いもの食いの道楽《どうらく》は健康への投資と心得よ。

     *

 日本料理は日本の美しい器にて、これは茶道にてきわめられている。けれども、今日《こんにち》の日本料理はもっと豊富なものになっている。また、科学的方面からも考察されている。われわれの味覚の嗜好《しこう》にも変化を来たしている。料理に使用される材料にしても、時代的な変遷《へんせん》が大《おお》いにあるであろう。今日の料理の堕落《だらく》は商業主義に独占されたからだと考えられる。家庭の料理は滅びる。家庭の料理が滅びることは、それだけ心身ともに不健康な人間が多くなることだ。

     *

 料理に一番大事なことといえば、それは材料のよしあしを識《し》ることである。材料のさかな、あるいは蔬菜《そさい》など、優れてよいものを用いる場合は、料理は、おのずから易々《いい》たるものである。よほど頓馬《とんま》な真似《まね》をしないかぎり、美味《うま》い料理のできるのが当然である。

 例えば瀬戸内海の生きのよいさかながあって、それが折りわるく下手《へた》な料理人の手にかかったとしても、種がよいために、どうにかこうにか美味く食えるものである。野菜にしても、京都のものなどで、新しいものを料理するならば、文句なしに美味いと決っているのである。それが場ちがいのもので、しかも古びた、さかなでいうなら、色の褪《あ》せた、臭気《しゅうき》のあるようなものでは、いかに腕のある料理人でも、どうしたって美味くはならないものである。野菜にしても、萎《しな》びて精気を欠いていては、味も香気もなく、ただもうつまらない食物にしかならないのである。こう考えて物が判《わか》るとき、材料のことをまず第一に心がけねばならぬ必要が起こるのである。材料の良否を心がけると同時に、次には材料の見分けがしかと掴《つか》めなくてはならないのである。

 それには経験が充分できていないと、材料を目前にして、よしあしが分らないであろうから、買い物学とでもいう買いものの苦労を重ねなくてはならないのである。例えば婦人が呉服ものの選択に苦労するようにである。見れども見えず、食えどもその味が分らないというようでは、料理を拵《こしら》える資格もなければ、食う資格もないわけである。材料の良否は人の賢愚《けんぐ》善悪にも等しいもので、腐ったようなさかな、あるいは季節はずれの脂《あぶら》っ気《け》を失ったさかななどは、魂の腐った人間に比すこともできれば、低能あるいは不良に比すべきもので、優れた教育家の苦心が払われたとしても、その成果はおぼつかないものであると同様である。

 ことに食物の材料は、さかなひと切れにしても、だいこん一本にしても、同じ値段で相当良否の別がある場合が間々《まま》あるのであるから、まず物を見てよいと認識して後、はじめて買いものをする習慣をつけることが肝要である。男なら酒のよしあしをやかましくいう酒|呑《の》みのように、ものの吟味《ぎんみ》を注意深くするようになれば、料理のよしあしが語れるわけである。そこで概念的に考えねばならぬことは、値段の安いものは概《がい》して下《くだ》らぬものが多く、値段が高いものは総じて品物がよいということである。それは何物でもある。ただし、掘り出しものは別である。それはいうまでもない。

     *

 誰でもふつうに、商売人の手になった料理は、美味いものかのように考えるが誤認である。なるほど、商売人は料理の玄人《くろうと》である。しかし、玄人はいろいろの条件において料理をする。第一に値段を考えて料理をするであろう。邪道《じゃどう》であるけれども、商売上であれば、採算のとれるようにするのが第一義で、料理は第二義。ここに堕落《だらく》がある。しかし、仕方のないことである。だから、われわれは玄人《くろうと》の料理だからといって、金出して食う料理は、美味《うま》いものとするのが誤り。そして、それが家庭の料理をも滅亡に導いてしまったのである。

     *

 家庭の料理、実質料理、一元料理、そこにはなんらの思惑《おもわく》がはさまれていない。ありのままの料理。それは素人《しろうと》の料理であるけれども、一家の和楽、団欒《だんらん》がそれにかかわっているのだとすれば、精一杯の、まごころ料理になるのである。味噌汁《みそしる》であろうと、漬けものであろうと、なにもかもが美味い。それを今日の簡単主義と、ものぐさ主義が、商業料理へ追いやってしまって、家庭の料理は破滅に陥ったのである。

 

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納豆の茶漬け

北大路魯山人

  

 納豆の茶漬けは意想外に美味いものである。しかも、ほとんど人の知らないところである。食通間といえども、これを知る人は意外に少ない。と言って、私の発明したものではないが、世上これを知らないのはふしぎである。

  

納豆の拵え方

 ここでいう納豆の拵《こしら》え方とは、ねり方のことである。このねり方がまずいと、納豆の味が出ない。納豆を器に出して、それになにも加えないで、そのまま、二本の箸でよくねりまぜる。そうすると、納豆の糸が多くなる。蓮から出る糸のようなものがふえて来て、かたくて練りにくくなって来る。この糸を出せば出すほど納豆は美味くなるのであるから、不精をしないで、また手間を惜しまず、極力ねりかえすべきである。

 かたく練り上げたら、醤油を数滴落としてまた練るのである。また醤油数滴を落として練る。要するにほんの少しずつ醤油をかけては、ねることを繰り返し、糸のすがたがなくなってどろどろになった納豆に、辛子を入れてよく攪拌する。この時、好みによって薬味(ねぎのみじん切り)を少量混和すると、一段と味が強くなって美味い。茶漬けであってもなくても、納豆はこうして食べるべきものである。

 最初から醤油を入れてねるようなやり方は、下手なやり方である。納豆食いで通がる人は、醤油の代りに生塩を用いる。納豆に塩を用いるのは、さっぱりして確かに好ましいものである。しかし、一般にはふつうの醤油を入れる方が無難なものが出来上がるであろう。

  

お茶潰けのやり方

 そこで以上のように出来上がったものを、まぐろの茶漬けなどと同様に、茶碗に飯を少量盛った上へ、適当にのせる。納豆の場合は、とりわけ熱飯がよい。煎茶をかけ、納豆に混和した醤油で塩加減が足りなければ、飯の上に醤油を数滴たらすのもいい。最初から納豆の茶漬けのためにねる時は、はじめから醤油を余計まぜた方がいい。元来、いい味わいを持つ納豆に対して、化学調味料を加えたりするのは好ましいやり方ではない。そうして飯の中に入れる納豆の量は、飯の四分の一程度がもっとも美味しい。納豆は少なきに過ぎては味がわるく、多きに過ぎては口の中でうるさくて食べにくい。

 これはたやすいやり方で、簡単にできるものである。早速、秋の好ましいたべものとして、口福を満たさるべきではなかろうか。

  

納豆のよしあし

 納豆には美味いものと不味いものとある。不味いのは、ねっても糸をひかないで、ざくざくとしている。それは納豆として充分に発酵していない未熟な品である。糸をひかずに豆がざくざくぽくぽくしている。充分にかもされている納豆は、豆の質がこまかく、豆がねちねちしていないものは、手をいかに下すとも救い難いものである。だから、糸をひかない納豆は食べられない。一番美味いのは、仙台、水戸などの小粒の納豆である。神田で有名な大粒の納豆も美味い。しかし、昔のように美味くなくなったのは遺憾である。豆が多くて、素人目にはよい納豆にはなっているが。

(昭和七年)

 

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Taken on December 21, 2012